浄土宗神奈川教区テレホン法話 第935話

中郡組 浄信寺 吉田 健一 皆さまは、仏壇のご本尊様、お位牌やお写真、或いはお墓参りなどをしていて、「あれ、なぜ皆、こちらを向いているのかな」と疑問に思ったことはありませんか? 当たり前のことのようですが、私は以前、お参りしている時に、ふっとそのように感じたことがあります。 そして、更に阿弥陀様のお姿を拝しながらお念仏を称えていると、突然ある言葉が浮かびました。それは「未来」と「希望」でした。 今までに一体、どれだけの人がお念仏を称え、後生、阿弥陀様の極楽浄土へと済い摂られたでしょう。いや、この世に於いても、その心の平安と安心を得たことでしょう。 そのような人達の眼の前にも必ずや、未来や希望が見えていたはずです。 お念仏を称え、極楽浄土に往生を願うことを、何やら古臭く、暗いイメージに捉える人も多いでしょう。しかし、私はそう思いません。むしろ、希望に満ちた、明るいものと考えています。 科学万能の世において、「死」は、あたかも人生に於ける「敗北」であるかのように語られます。しかし、人生が敗北に向かってあるのならば、自分が抱えているこの苦しみや悲しみに一体なんの意味があるのか、答えが見出せなくなることがあります。さらには家族と過ごす幸福な時間さえも、苦しみへと変わることさえあります。子煩悩とは良く言ったものです。子供を愛することは、その裏返しとして、わが子との別離の苦しみを深めることでもあるのです。 極楽浄土を信じるとは、その世界に思いを馳せることでもあります。 イメージしてみてください。極楽浄土に往生された方々の視線を借りて、今の自分の姿を捉えてみてください。死は敗北である、という視点からではなく、その「死」の先に広がる美しい浄土に立ったその視点から、今の自分を振り返り見たときに、この苦しみも、悲しみも、そして幸福も決して虚無ではなく、自分にとってとても大きな意味があることだと感じることができる筈です。 更にイメージしてください。もし、あなたが今、その極楽に往生したら、どうしますか? あなたは、必ず、残された家族や友人を思い、彼らと向き合うことでしょう。 同じように、極楽にいるご先祖様、そして阿弥陀様は常にあなたをご覧になっている筈です。あなたが称えるお念仏のひと声、ひと声に、彼の方々はどれほどお悦びになるでしょうか。お仏壇もお墓も、皆いつも我々と向かい合ってくれています。私たちを常に見つめ、決して逃げも隠れもしません。いつもあなたのことを極楽から見守っています。「何れこの極楽で共に再会するまで、どうぞ安心して、そして、楽しんでこの世の勤めを果たしてくださいね。」まるでそのようなメッセージを発しているようです。 お仏壇やお墓と向かい合う、そのような時間の中で、深く自分自身の「今」、そして「未来」を、見つめてみませんか。

次回は7月21日にお話がかわります。