浄土宗神奈川教区テレホン法話 第803話

テレビや新聞を見ておりますと、人をだましたり、傷つけたり、命を奪ったりといった、心の痛む事件が報じられない日はほとんどありません。どうして、このような世の中になってしまったのでしょうか。
 それはひとえに、人間の驕りであると思います。他人は自分たちより劣っているから傷つけてもかまわない、自分は優れているから悪い事をしてもばれるわけがない、という思いあがりから来ていると思います。
 仏様から見れば、自分などは、ちっぽけな、おろかな存在であります。その自覚を持てば、思いあがりから来る犯罪も、少しは減るのではないかと思います。
 しかし、そういう自覚を持ったところで、わたしたち人間は、罪を重ねることなしには生きていくことはできません。食べ物として野菜や魚、肉を食べることで、動物や植物の命を奪う事なしには自分たちの命を保つことはできないからです。人間として生きていくこと自体が、罪深いことなのです。
 こんな罪深い私達でも、お救いくださるのが阿弥陀様なのです。みずからの愚かしさ、罪深さを心から悔い、阿弥陀様のお力を信じて南無阿弥陀仏と称えれば、阿弥陀様は、分け隔てなく必ず救ってくださいます。
 浄土宗をお開きになった法然上人は、誰でも救いとるとされた阿弥陀様の願い、お慈悲をありがたくお受け取りになり 阿弥陀様がおつくりになられた、浄らかな西方極楽浄土に生まれたいと願われました。そして、生涯をかけて、多くの人々に念仏往生の教えをお説きになりました。
 しかし、法然上人の教えを履き違えた人たちによって、誤った考えが広まりました。たとえ悪人でも救われるのだから、何をしてもよいのだ、という考えです。
 小さな罪でも犯すまい、と思いなさい。悪人でも救われる、善人ならば言うまでもない。と法然上人のお言葉は続くのです。
 阿弥陀様は、たとえ悪人でも、阿弥陀様の存在を信じて、心から罪を悔い、お念仏すれば必ず救ってくださいます。罪を重ねてしまうのが人間ですが、あえて悪をつくることは、阿弥陀様を悲しませることになりましょう。
 わたしたちは、生きているかぎり、罪を重ねているのです。ただ、お念仏で救われると思えばこそ、小さな罪も犯すまい、と思う人間になれるのです。
 自らの愚かしさ、罪深さに気づき、阿弥陀様のお救いを信じて、お念仏をお称えしましょう。

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