浄土宗神奈川教区テレホン法話  第677話

 前回は生活の中のお念仏として四修、即ち四つの修行の項目をあげて、その中の第一恭敬修についてお話しました。今回は四修の第二無餘修についてお話しましょう。これは他の行をまじえないで、一心にお念仏を称えるということです。浄土宗を開かれた法然上人は、中国の善導大師の言葉を引いて次のように述べています。「もっぱら阿弥陀仏のみ名を称え、阿弥陀仏及び極楽にいられる聖衆を想い、礼拝し、賛歎して、阿弥陀仏や極楽浄土以外のことは考えないようにする。これが四修の中の第二の無餘修である」というのです。これは極楽浄土や阿弥陀仏以外のみ仏や浄土のことを念じたり、お礼拝をしたりしない方が良いと言うことです。何故かと言うと、南無阿弥陀仏という念仏の行によって、折角整えられたお気持ちが、他の行をまじえることによって、中断されてしまうからです。このことについて、法然上人は他の所でも同じ善導大師の言葉を引いて、「阿弥陀仏や極楽浄土にいられる全ての聖者たちを讃めたたえ、その他のつとめをまじえてはならない。このようなつとめを一心に行う者は、百人居れば百人とも、皆そのまま極楽浄土に往生することが出来る。若しも他のつとめをまじえて行う者は、百人のうちわずか一人か二人しか往生することが出来ない」と言い切って居ります。このような善導大師の言葉を承けて、法然上人は南無阿弥陀仏とお念仏を称えることを「もっぱら彼の仏のみ名を呼ぶ」ことであると言い直されています。
 世の中には頭の良い、いわるゆ多才な人が居ります。誠に結構なことだと思いますが、お念仏の信仰の世界ではそのような特別な才能は必要条件ではないようです。法然上人が阿弥陀如来と同じように信頼された善導大師の今のお言葉に依る限りでは、一度お念仏の道に志したならば、やはりお念仏を中心に生活を整え、念仏信仰に入ったその日から終生お念仏を中心に過ごすべきであるとされていることが解ります。
 

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