浄土宗神奈川教区テレホン法話 第1169話

港南組金臺寺 奥田 昭應

『命と向き合う』ということ
お釈迦さまの「お悟り」と申しますと、大変難しく受け取られる方々が大半です。
辞書でひきますと、「迷いから覚め、真理を会得した境地に達すること。」または、「物事の道理をはっきりと理解し、迷いや煩悩から離れること。」とあります。お釈迦様は、この真理を悟りつくして、多くの大衆や弟子達を教え導きましたので「仏陀」とあがめられました。

私たちは、幸せになりたい、あるいは苦しみから離れたいと願う中で、寺社にお参りし、神仏のご加護を願って、一生懸命祈ることがよくあります。しかし苦しみから離れることは、果たして神仏への祈りによって、解決するのでしょうか。もう一度お考えになってみてください。
例えば、祈っている自分自身は、神仏に願いを聞き入れてもらえる自分なのだろうか、とまずお考えになることが大切です。
自分自身のことを振り返りもせず、ただ祈る人にとっては、祈る神仏のご利益の力の方が大事となります。「あそこの仏様、神様はご利益があるのだろうか」ということが気になります。事実、書店には「全国ご利益案内」という類の書籍が並んでいます。
はじめに申しましたように、あらゆる苦とはいったい何かと、突き詰めていく、見つめてゆく中に、お釈迦様は、「生命と何か」「生きるとは何か」と、道を求め、物事の道理を理解し迷いから覚めたのです。「何故?」「どうして?」と、命と真正面から向き合う姿勢の中から、宇宙の真理というもの、道理というものを深く理解したのです。
例えば親子の問題も、神仏に祈って解決することを選ぶのではなく、自分自身と先ず向き合い、次に子どもさんに向き合ってこそ、見えてくるものも沢山あるはずです。
食べ物でさえも、その命と向き合ったとき、ただ美味しいとかまずいとか、好きとか嫌いではなく、旬を通じて命のありがたさを感じ取ったり、母がよく作ってくれたことを思い出して、私をお育て下さったことを振り返り、自分の命を支えてくださった計り知れない御恩などが、あらためて有難いと理解できるものも沢山あるはずです。
「命と向き合う」ということ。
次回は6月の中頃にお話が変わります。