浄土宗神奈川教区テレホン法話 第1107

「領納解知(りょうのう・げち)」

極楽寺 稗貫 光遠 浄土宗神奈川教区テレホン法話第1107話、お電話頂き有難うございます。今回は、「領納解知」、本当に分かるということでお話をさせて頂きます。
分かるということに、聞・思・修の三慧ということがあります。先ず「聞慧」というのは、話を聞いて分かるということです。「聞く時は、げになるほどと思いつつ、下駄はく時はとうに忘るる」、これでは本当に分かったとは言えませんね。次に「思慧」というのは、本を読んだりして、考えてわかるということです。しかし、頭の中でどんなに難しいことが分かっても、それが生活の中で生かされ来なければ、それは単なる知識であり、やはり分かったとは言えません。
本当に分かるというのは、実際やってみて、なるほどそうなのかと納得し、体験を通じて出て来るものが智慧であり、また「我がもの」となって、初めて本当に分ったのであります。
皆さんは今日、お家を出る時、右足から出ましたか、左足から出ましたか。よく覚えていませんね。それは頭で考え歩いたのではなく、歩くということが、しっかり身に付いているから、今では考えなくても歩けるのです。では最初から上手に歩けたかと言えばそうじゃない。ヨチヨチ歩きから、何度も「歩くこと」を繰り返している中に、今では自然に歩けるようになった。
一度泳ぎを覚えた人は、5年、10年泳がなくても、水に入ればすぐ泳げます。それは、知識ではなく泳ぐということを体で覚え、「我がもの」としているからです。お念仏も自分のものとして納め取り、我がものとすることにより、生活の中に生かされて来るのです。
「食べぬ昔は、畑の野菜。食べてしまえば、我が身体」、どれほど美味しい野菜でも、畑にある間、見ている間は私のものではありません。私とは全く別のものでありますが、でも、その野菜を食べ、味わうことにより、初めて私の身体の一部となり、私の力となるのです。
お念仏も同じで、お念仏を繰り返し称え続け、「我がもの」とした時に、アミダ仏様は、私たちのお念仏の声に応えて、私の傍にいて護って下さり、私の力となって下さるのであります。

次回は、5月1日にお話の内容が変わります。またお電話ください。