浄土宗神奈川教区テレホン法話第983話

港南組 三佛寺 吉川 瑞教

 紅葉の美しい季節となってまいりました。暑い夏に木陰をつくってくれた緑豊かな葉も赤や黄色に色を変え、輝きを放っています。寺の境内ではサクラ・ケヤキ・モミジ、そして最後にイチョウが落葉します。この時期になると特に境内掃除は欠かせません。掃き清められた境内はすがすがしいものですが、掃除から教わることも少なくありません。  竹ぼうきを使っての掃き掃除のほかに草取りがあります。ある時、いつものように草をとっていたところ、「はっ」と気がついたことがありました。草をとり分けているのです。「スミレはきれいな花が咲くから残しておこう」と自分の都合で残すものと抜いてしまうものを区別しているのです。
その時思い出したのが、「雑草という草はない」とおっしゃった昭和天皇のお言葉です。そのお言葉には「すべての草にはそれぞれちゃんと名前がある」という意味のほかに「すべての草にはそれぞれの命がある」という陛下のお気持ちが込められているような気が致します。私が不要な「雑草」として抜いてしまった草も、大切に残したスミレも、それぞれ命を持つもの。その命の重さには全く差はないはずです。にもかかわらず「美しい」とかそうでないというひとりよがりな勝手な判断で命を摘み取ってしまっていることに気付きました。
そのことに気付くまでは、境内の掃除はすがすがしくお参りして頂くための清らかな行ないであるとだけ軽々しく考えておりました。しかし、その清らかな行いのさ中に、私の眼には不要と映った草の命を黙々と摘み取っているのです。私が掃除さえしなければ生き延びることができた草の命。生きとし生けるものの命を奪ってはいけないというのが仏様の教えです。そうかといって草取りをしないわけにもいきません。何とも複雑な心境になりました。知らず知らずのうちに、あるいは、知っていながらも矛盾を繰り返し、結果的に悪い行いを積み重ねてしまっているのが私たちの日常です。どんなにきれいごとを言ってもどうにもならない己がここにいることを知ることが仏様の教えに近づく第一歩です。
 次回は11月21日にお話がかわります。