浄土宗神奈川教区テレホン法話 第911話

 先日、テレビで去年約十万人の人々が参加した活動のことを報じていました。横浜の中田市長も、ずっと参加してきたそうです。
 一体どんな活動だと思いますか。それはトイレ磨きなのです。トイレをブラシやスポンジを用いて、裸足になり、素手で磨き上げてゆくという活動です。
 これは単なるボランティアではなく、あくまで自分自身のためにやるということが基本のようです。トイレ掃除は人の避けたがる仕事の一つですから、初めて参加したある若い方は、現場を見て戸惑いを隠せない様子でした。
 さて、今回はこの活動と相通ずる、お釈迦様のある弟子にまつわるお話をいたします。
 お釈迦様の弟子の中にチューラパンタカという名の人物がいました。この弟子は物事を覚えるのが大の苦手でした。あるときお釈迦様がほんの短いお経を彼にお与えになりましたが、次の部分を憶えようとすると、たった今憶えた部分を忘れてしまえという有様でした。そんな弟子にお釈迦様は優しく語りかけ、「がっかりすることはない。憶えることができなくても大丈夫。その代わりにこの布を使って人々の履物を常にきれいにするように努力しなさい。」と告げられました。
 そこで彼は、言われたとおり、ひたすらそのことに打ち込みました。いくらきれいにしてもすぐまた汚れてしまう人々の履物ですが、一心に磨き続けたそうです。そしてふと気づいたときには、お釈迦様がお説きになろうとすることをよく理解していたということです。
 履物の汚れを取り去ることは、人々の心に付いた“煩悩”という汚れを落とすのと同じくらい難しい。それゆえ常に心に汚れが付かぬよう心掛けなければいけないということなのです。
 またこのお話の主人公の、怠ることなく熱心に仕事に励む姿の中に、仏教の”精進“という言葉が浮かんできます。
 たしかにどんな仕事でもいやいや行えば、雑な仕事になってしまいます。このお話はどんなことに対しても、一生懸命努力することがいかに大切であるかということや、そうすることが私たちの心を少しずつ浄化してくれるのだということを、私たちに示しているのではないでしょうか。
 トイレ磨きを通して、先ほどの若い方も、自分の心の中に芽を出した微妙な変化を確かに感じ取っているようでした。

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