浄土宗神奈川教区テレホン法話 第909話

 社会で生活する上で私達はルールと言う物を守り暮らしております。
 そのルールを守りさえすれば罪人とは言われませんが、私達は気付かないうちに間違いを起こすことも少なくはありません。
 何気なく、発した言葉で相手を傷つけてしまっているかも知れません。
 また、目移りしてしまうほど色々な物が世の中には溢れていて、まだ使えても、買い換えてしまう物欲が次々と沸き起こります。食事にしても動植物の命の上に私達の命は支えられています。
 明るく、正しく生活しようと心がけていても日々、私達の心は乱れ、平静を保つのも難しいものです。
 つまり、志は持ちつつも私達人間は全て、煩悩多き罪深い存在なのです。
 しかしながら、これらの自覚こそが私達の残された救いの入り口となるのです。
 私達は命尽きた時にお浄土を目指すわけですがご自分の力ではたして、往けるでしょうか?
 このような存在でも救われる道はないかと模索されたのが、宗祖 法然上人であり、示されたのがお念仏なのです。
 お念仏をお称えする者には阿弥陀さまが自ら来迎して、漏らすこと無くお救い下さり、お浄土へ往生させて頂けるとお誓いになられました。
 煩悩多き罪深い存在であると自覚し、阿弥陀さまのお力に頼るほか、見当たらないのです。
 そのお頼りする気持ちでお念仏をお称えする事が最初に必要なのです。
 「どうか阿弥陀さま、お願いいたします」という気持ちを南無阿弥陀仏と、声に出してお称えしているわけですがお浄土への往生が約束されているからといって、日々の忙しさに負けず、お念仏をお称え続けてこそ意味があるのです。

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