浄土宗神奈川教区テレホン法話 第810話

 先日、ある本にこのような文章がありました。
『「うちの子はちっともいうことを聞かん」と怒るよりも、「こんな子に育てて…」と詫びていく親のすがたに、心ひかれるものがある。』
 この文を読んで私は自分の子供のころを思い出しました。
 私が高校生のとき、学校で問題を起こし、母親が学校に呼び出されたときがありました。担任の先生と三者面談となったのですが、その時に、先生に謝っている母親の姿を見て、私はなんて事をしてしまったのかと、反省させられました。普段なら、「家に帰ってまた怒られる。」と思っていたのですが、その日は両親に怒られることはありませんでした。しかし、悲しそうにしている両親をみると、怒られた時以上の衝撃がありました。「親をこんなに悲しませて。」わが身の至らなさを反省し、両親への感謝の心でいっぱいになったのでした。
 親が子供を叱るのは当たり前。しかし、親が、自分自身を詫びていく姿に、子供は怒られる以上のものを感じるはずです。
 さて、私たちにとって、阿弥陀様は、至らぬ子を慈しむ親のようでもあります。阿弥陀様は、西方極楽浄土を建立され、私たちをお救い下さるために、五劫という長い間、修行を積まれました。その修行は、私たちに代わって積まれた修行であり、時間がかかったのも、私たちの罪深さに原因があるのです。しかし、阿弥陀様の御心は、この世において、もがき、苦しみ、煩悩を捨てきれずに悟りを開けない、私たち人間を、何とかして救わずにはいられないという慈しみの心と、悲しみの心であります。それは、まさしく、親が子を思う姿そのものであります。その御心を思ったときに、私たちは改めて、阿弥陀様への感謝の念でいっぱいになるはずです。
 阿弥陀様が極楽浄土を建立し、仏となられるために誓われたことは、こんなわたしたちでも、お念仏をお称えすれば、極楽に往生させるという、わたしたちのための誓いだったのです。
 自分に代わって、謝ってくれる人がいる。
 自分に代わって修行してくれる人がいる。
 それを知った時、わが身の至らなさと、感謝の念がこみ上げてきます。