浄土宗神奈川教区テレホン法話 第752話

 前回こころと身体をひとつにすることの大切さを申し上げました。もう少し続けてみたいと思います。心と身体の関係が見直されたキッカケのひとつは平成の始めに行われた脳死と臓器移植の問題であると思います。脳死状態におちいった患者の臓器を他の患者に移植するという問題でしたこれは人間の死とは何かを問い直す大きな問題でした。脳死状態になった人間は医学的には再び下の状態に戻ることはない、それゆえ脳死は人間の死である、という考え方でした。しかし、この医学に基ついた死のとらえ方には主として宗教界から批判の声がでました。私達浄土宗の総合研究所での見解でも脳死は人間の死とはいえない、という結論に達しました。なぜならぱ、人間が生きていると言うことは「なん」つまり肉体の温かさと、識つまり意識が呼吸によって生かされていると言うク舎論の考え方によっているからであります。従って仏教では人間が死ぬと言うことは、肉体の温かさがうしなわれ、識が肉体を離れるときと考えます。但し肉体の温かさが失われることは私達普通の人間にも理解されます。しかし、識が肉体から離れることを知ることができるのは悟りを得たものでなければわからない、というわけです。従いまして医学での死の理解と仏教での死の理解には違いが見られるのです。但し、それでは仏教では何時人間が死んだのかわからないことになるのではないか、という意見があるかと思います。その通りです。そのために死を段階的に受け止めていこうとしました。そのために葬祭儀礼が生まれたと言ってもよいかもしれません。遺体の処理に関しては経験的に理解できますから一応の埋葬などを致しますが、識これを霊魂と言う言葉に代えてみますとよくわかるかと思います。仮に霊魂と呼べは、この処理には長い時間をかけて供養をしてまいります。いわぱ時間をかけて死を確認するのです。ここに見られるのは肉体と霊魂は分かちがたく結ばれていると言う考え方です。そして死は肉体と霊魂が分離したときと言う考え方です。
 こうした肉体と霊魂は別々の物ではあるけれど、不可分に結びついているところに人間の「いのち」つまり生があるという考え方を見るとき、私達は日常生活においても心と身体のバランスをとることが重要だと言えるでしょう。
 無論、単純に識と霊魂とこころを同じひとつのものとしてくくって考えることに問題はあるかと思います。しかし、人間は肉体だけではない、何かが在って、何かが加わって人間と考えることには共感が得られることと思います。そう考えてみれば木魚を打ち、我耳に聞こえるほどの声を出してのお念仏は身体をこころを一つにするよい方法と思います。
 いや座っての念仏に時間が避けないと言う人は、歩きながらの念仏もあるかと思います。
 ウォーキング念仏もオススメできると思います。

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