浄土宗神奈川教区テレホン法話 第1031話

三浦組 光照寺 三浦 正順

こんにちは。前回は、浄土宗をお開きになった法然上人が、既存の宗派からの批判により、ついには、讃岐、現在の香川県へと流罪となってしまったことをお話しいたしました。
 法然上人が京都をお旅立ちになるときは、法然上人に帰依をされた多くの人々が集まり、その別れを悲しまれました。60人ほどのお弟子が上人に付き添われました。
 道中も様々な人に念仏の教えをお説きなられたそうです。
 海を舟で渡られた法然上人は、上陸された時、喉の渇きを潤すため真水を求められましたが、海岸ということもあり、なかなか見つけることができませでした。その時、法然上人は、自ら乗ってこられた舟の櫂で砂浜を掘りますと1メートルも掘らずに真水が湧き出たとのことです。現在もそこは、櫂掘の井戸と呼ばれ、浄土真宗正宗寺というお寺が御守りしております。
香川県の善通寺市にある善通寺は、真言宗善通寺派総本山であり、真言宗の開祖である弘法大師空海の御生誕の場所です。四国讃岐へ配流となった法然上人は、小松庄生福寺という寺へと向かいますが、その道中でこの善通寺へと立ち寄ります。善通寺文書に『一度でもこの寺をお参りした人は、必ず極楽浄土で再会できる』と書かれているのを見て、とてもお喜びになったということです。ここで法然上人は、自らの追善供養をしたと言われています。生前に追善供養をすることを逆さに修めると書いて、「逆修」といいます。そして、法然上人は、善通寺に逆修の塔を残されました。
小松庄生福寺にお着きになると、それを聞きつけた人々が法然上人の教えをいただくために集まってきたと伝えられています。京都を中心に教えを弘められていた法然上人にとっては、四国の地で多くの人々が救いを求め、教えを請いたいと願っていたことは、とてもうれしく思われたことでしょう。
そして、身分の高い人、学識のある人しか仏の教えを戴くことができないと言われていた当時では、お念仏で救われるという法然上人がやってきたことがどれだけありがたかったことでしょう。
ちょうど、春彼岸の時期となります。今、お念仏のお称えできることのありがたさをあらためて感じお念仏に精進いたしましょう。今回はここまでにいたします。次回は、3月21日にお話がかわります。